家系は吹聴するものに非ず

中世史

過日鳥越俊太郎氏の家系詐称が問題になっていることについて少し書いたが、その後氏のコメントをネットで見て、この方は問題の大きさを全く理解しておられないのだろうかと不思議に思う。

私自身が鎌倉御家人の後裔であることもあって、家系に関しては人一倍気を使っている。

室町幕府崩壊の後、織田の武将であった明智光秀の丹波攻略によって、丹波大山庄に蟠踞した遠祖の城は明智連合軍の総攻撃を受け、奮戦するも城主一族を初めとして近隣の住民や菩提寺、関係諸寺院の僧徒など多くの者が討ち死にし、城主は自刃・城郭及び近隣の諸寺院も明智の軍勢によって悉く焼きはらわれた。

その結果、鎌倉期より伝承してきた大事な地頭職任命状、東寺や隣庄との訴訟関係書類、室町期の所領安堵状、叙記・爵記、家系図など悉く焼失してしまっている。
幸いにして一族の本系に近い分系(一分地頭職を持っていた者)に明徳年間の地頭職譲り状を初めとして数通の中世文書が伝承されてきたこと、又、本領であった丹波大山庄が京都東寺の庄園であったことから、国宝である東寺百合文書の中に庄園を侵略し小領主的大名へと成長してゆく遠祖の成長過程が残されていること、また、一族の中には室町幕府の高級幕僚として活躍していた者がいたことなど、幸運としか言いようがないが、長年に亘り日本の歴史の表舞台に立ち続けたこともあって、現在の日本史を研究する基となる文献に多くの名を残している。

特に東寺の庄園へ地頭として入部してから、地頭請・下地中分へと訴訟が続いたことは、日本の歴史に重要な史料を提供しており、多くの歴史書にこの経緯が載せられている。私が高校生であった頃の日本史の教科書にも掲載されていた。また、室町幕府奉行人の名簿も当時は掲載されていたと記憶している。

私は40年近くこれらを歴史史料を研究し、一年毎の年表にしている。史料は800点近くあるが、これを公開するつもりは全くない。

源平合戦が終了した建久元年(1190)に、源頼朝は、後白河上皇の命を受け始めて上洛するのであるが、その時に供奉した幕府の精鋭一千騎の中に、先陣三十七番目に海老名兵衛尉・豊島兵衛尉と3騎並列して行軍している、

その後、承久の乱(1221)の勲功の賞として丹波の地頭職を拝領し、当初は代官を派遣して統治に当たらせていたが、摂家将軍藤原頼経が京都へ戻った頃を契機として西遷し、丹波に居住しながら京都六波羅探題の幕僚も勤めていたようである。それ以降今日まで、家系の流れを第三者の第一級史料・資料によって殆ど途切れることなく一族の動向を確認することが出来る。一部を所載する。

【関東下知状】
東寺領丹波国大山庄雑掌祐厳申募年貢員数可分田由事
右、六波羅去四月三十日注進者、当庄為地頭請所、雖備進年貢、地頭中澤三郎左衛門尉基員大捏之間、募彼寺用可被切渡下地之由、祐厳就訴申、尋下之処、仍貢毎年雖無難渋之儀、可被切渡下地之由、雑掌望申之上者、不可痛申□(之)由、基員□□
(中略)
然者募年貢之員数、可分与下地於寺家之状、依鎌倉殿仰、下知如件

永仁二年(1287)十二月廿三日

陸奥守平朝臣(北条宣時)(花押)
相模守平朝臣(北条貞時)(花押)

東寺文書 に五十二下一五十五

○地頭の入部により庄園領主であった京都東寺は年貢米の減少に困り、地頭を請け人として在地の経営を任せ、一定の年貢を受け取っていたが、それも遅配になり、下地(土地の支配権のこと)を分割して、境には棒示を立て、互いに相手方へ侵入しないように下地の分割を求めた。その典型的な歴史史料である。これを下地中分を呼ぶ。

【室町幕府奉行人中澤信綱書状 応安元年6月12日(カ)】(切紙)
委細承候、抑御注進己以下御返事両通申沙汰候、令進候、大将既治定之上者、不可有幾(異議カ)候、其間可有御堪忍候哉、付諸事、貴方様御事、不可等閑候、恐々謹言
(応安元年)(1368)
閏六月十二日          沙弥定阿 (花押) 「中澤掃部大夫入道定阿(信綱)」
謹上 田原(氏能)殿 御事 (返脱カ)

○入江文書(豊後)には信綱の書跡が写真で掲載されている。○この時大将に決まったのは小田原殿(今川了俊)。鳥越興膳の遠祖が仕えた(カ)大友氏継(時氏の子)は了俊の指揮下にあった。了俊は後に九州探題となる。○田原氏は大友三家の一つ、庶子の流れになるが、豊後の有名武将である。〇定阿(実名信綱)は足利尊氏の恩賞方奉行人。(相模国)平塚より尊氏の先陣を率いて濃州に着陣、江州路尚不安の為暫く留まる。掃部允、掃部大夫を称す。掃部大夫入道定阿。中澤三郎入道性忍の跡を継ぎ、石清水八幡再建にも尽力した。○(異議カ)・(氏能)は筆者注す。

拙家のような家は極めて稀な家系である。その為丹波の諸地域で江戸中期頃から焼失してしまった筈の系図が、源平合戦の頃よりこと細かに書かれた偽家系図が出回っていた形跡があり、今日でもそれを基にして歴史研究論文を書いて雑誌に投稿したりされている。この偽系図がどのような経緯を経て今日まで密かに利用されてきたのか全くわからないのである。そしてこの系図は丹波に残った本系一族の元へは一度も持ち込まれたことがないのである。

別姓を名乗っていたと記載されているが、大山城落城より400年以上経つが、系図を検証する為に一族に持ち込まれたのは、平成元年頃私の処へこの偽系図について同意を貰おうとしてA氏がこられたのが最初である。勿論認めないし、同意もしていない。

その系図は源義経から始まるもので、誠に良く出来たものであるが、戦国期に拙家の城が落城した頃で途切れており、その後は全く何も書き継がれていない。そしてその家系図のあらゆるところで、次男・三男などのところに、色んな姓が沢山書かれており、それらの祖だと書かれている。

則ち、この系図は江戸期の故買屋(けいずや)の手によって作られ、多くの姓の人に売れるように作られているのである。
筆跡も書き出しから最後まで同一人であり、よくまあここまで時代考証をして調べ上げたものだと、その出来栄えには感心せざるを得ない程素晴らしい出来上がりである。達筆であり系図の形式もちゃんとしており、詳細に検討しなかったら私でも本物かと間違うかもしれない程の優れものであった。

この偽系図の中で女子がこれも丹波で著名な家である鎌倉以来の地頭の処へ嫁に行ったことがかかれている。当時の武家社会を考えれば当然あって然るべきことであるが、このことをもって、婚家先の姓を名乗っておられる歴史好きの前掲A氏が、「私は源義経の子孫だ」というような内容の歴史論文を書いて、地方の歴史愛好家が発行する雑誌に投稿されている。
また、インターネットにもそれらの記事がホームページを作成されて掲載されている。色んな掲示板へも書き込まれていたのが判明したので、その都度当該掲示板に「こんなインチキ論文は載せないで頂きたい」と申し入れているが、A氏は私からの削除要請には全く答えられえず、掲示板にコメントを返すことすらされていない。著作権の問題で私が撤去する訳にもゆかず、誠に困ったことになっている。今日でも解決の目途は立っていない。

翻って、明智による落城以降、拙家は丹波篠山へ入部した藩主に召し出され(恐らく在地の有力武将子孫の反乱を防ぐ為の人質)、その後藩主の転封により各地へ移転するが、江戸中期よりは大和にいたので、丹波の一族とずっと手紙のやり取りがあり、江戸末期には在地より大和へ何度か来て頂きていた。また、当時部屋住みであった拙家の嫡子が丹波へ赴き、城址を見学・墓参し、一族とも親しく交流を持ってきた。

拙家は在地の一族を本家と仰ぎ、在地の当主は武家として鎌倉以来の名誉を保ってくれている一族と思い、互いに尊敬し合って今日まで交流が続いている。家系とはこのようなものなのである。

家系の伝承と遠祖の祭祀は同一のものであり、家系図だけを伝承しているというのは、普通考えられないのである。

今回の鳥越俊太郎氏の家系偽装報道は、何故墓所を確認しなかったのであろうか。墓所を訪ね、菩提寺で俊太郎氏の初代がいつ葬られていたかということを確認しておけば、このうような家系偽装は起こらなかったであろう。

昨日の報道によると、30~40年前に、俊太郎氏の両親と叔父が鳥越興膳の直系子孫を訪ね、家系の調査をされていたという。

そのとき、興膳の直系当主は一族ではないということの証明の為に家系図を見せてあげられたという。
それを書き写したものを今日まで自らの家系だと偽装していたというのだから、俊太郎氏の両親・叔父が如何に家系を欲しがっていたか良くわかる。

私はどのような事があっても家系図を他人に見せることはしない。前述したが、拙家の偽家系図が江戸中期に出回っていたことを知っているからである。
鳥越本家が俊太郎氏の両親に家系図を見せてあげられたのは、ご好意によるものであった筈である。
まさかメモ書きしたものを自分の家系図として偽装されるとは思ってもいなかったであろう。

俊太郎氏は自分がやったことではないにしても、両親・叔父が鳥越本家の家系図を自分の家系だと偽装したことは間違いなく、今回の報道で激怒されていることは解っているのだから、何故直ぐに頭を下げて詫びに行かれないのだろうか。全く理解できない。

今回のことを現代で置き換えれば、家系図を見せて頂いたということは、戸籍謄本・除籍謄本を見せて頂いたのと同じことである。そこで一族ではないと判っているのに、どこかに枝を作って一族だという偽家系図を作ったのと同じである。私文書であるから罪に問えないが、これを役所に知り合いがいたりして、戸籍を改竄して子供を一人書き加えりしていただら大問題になるところである。

私は偽家系図を作られたほうの人間だから、今回鳥越本家が激怒されたのは良く理解できる。

このカテゴリーの最初に書いた記事の文末に書いてあるが、どんな立派な家系図を伝承していたとしても、遠祖の祭祀を継承していなければ何の意味もない。そのことを理解されれば、墓所・菩提寺で遠祖を遡れない限り、それ以上遡ることはまず不可能だということがご理解頂けるだろう。

今回の鳥越氏家系詐称の原因は、不可能のことを何とかしようとされた俊太郎氏の両親・叔父が鳥越興膳のご子孫に繋げたいという思いから出たものであるが、家系図を見せてあげられたご本系ご当主の好意を悪用して自分の家系に繋げたとは、呆れかえった話である。こんな酷い話は今迄聞いたことがない。

家系は継承するものだけが判っていれば良いのであって、他に向かって吹聴するものではない。墓所がわからない、第三者の傍証を得られない家系図はまず偽物と思って間違いないだろう。

俊太郎氏のコメントは「情けない人だな」としか思えない。鳥越製粉創業者以前の墓所を調べたら、自らの遠祖のことは判る筈である。そんな事は他人に言われなくても、幼い頃より墓参りをしていれば判っている筈である。
それが判らないというのは、墓参りもしてこられなかったのだろう。良識を疑わざるを得ない。天網恢恢疎にして漏らさず。上手の手から水が漏れましたな。

タイトルとURLをコピーしました