江戸期に庶民が苗字を持っていたかを検証

家系の遡及

先日SNSにおいて、江戸期に庶民の殆どが苗字を名乗っていたかどうかという話になりました。私は極一部の有力者は苗字を名乗っていたことは確認出来ていますが、膨大な江戸期の村落史料を検討してきた経験から、それはないですとお答えし、念の為にご主張の根拠となる文献をお知らせ頂き、関係する史料を検討した結果、はやり大多数の庶民が苗字を名乗っていなかったとの結論に達し、SNSで簡単なお答えをしておきました。

中世に苗字を名乗っていたとされる方々には、官職を苗字としていた方がおられます。この官職を苗字として考えるより、禁裏領でしたので、蔵人所(くらんどところ)・修理寮(すりりょう)その他禁裏関連の組織より、在地の百姓職(ひゃくしょうしき)という権益を与えられた方々と考えています。在地の指導的役割を持つ役人です。地下沙汰人(じげさたにん)、在地の預所(あづかりところ・あづかりしょ)、在地の政所(まんどころ)に所属する人々と考えられます。

これは東寺百合文書にある丹波大山庄関連の史料で確認出来ることですが、東寺の在地代官がゑもん(衛門)入道の子で左近太郎を名乗っていた者に「太刀をもたせ・・掃部になし」と書き残しております。

【東寺百合文書ノー34-40】

一井谷のかもんの事

寺家の御百姓と存候。於今者(今に於いては)其儀ニあるましく候。かれか事ハ一年さかい(堺)さうとう(騒動)の時、おや(親)のゑもん(衛門)入道を地下〔  〕にてことにさう(左右)よ(寄)せてうたれ(討たれ)てのちハ、かうてき(向敵)をうけ候て、身のおき所なく候之間、平ニ此方をたのみ候て、下人ニなり候ハんすれは、いのちをたすかりかやうニはからい(計らい)へとわひ(詫)事候□(間)、ふち(扶持)をくわ(加)へ候て、西御所御料所伊勢近江にかく(隠)しお□(き)候て、つき(次)のとし四月御料へ入部の時めしくし(召し具し)候て入て候所を無為ニ沙汰仕候て、其後此左近太郎をめしくし候て、太刀をもたせなとし候てわさと彼かうてきのかたへまわり(廻り)ありきめしつかい候よしを、てき方へも披露仕、ふしき(不思議)のいのち(命)をたす(助)け候し。其後かもん(掃部)ニなし候事もこなた(此方)よりなして候いしょう(以上)以下としとし少扶持仕候所ニ、近年くわんたい(緩怠)ニあまり候て、けつく(結句)御百姓をそくなわかし(唆しカ)又寺家への種々事を申しあけ。如此てうさん(逃散)仕候。-以下略すー

注)さかい(堺)騒動とは大永6年(1526) 丹波守護細川高国と丹波の波多野元清・柳本賢治・内藤国貞、阿波の三好衆などが衝突した事件と思われる。大山庄の史料では陣夫を徴されていた事を確認出来る。

中々文意を読み取りにくい処もありますが、この一井谷のかもん(掃部)とは、ゑもん(衛門)入道の子ですが、左近太郎と名乗っていた事が判ります。そして、堺での戦乱に巻き込まれ、父のゑもん入道が討たれ、周りは敵だらけになり大山庄へ帰ってきたが、在地の百姓達も敵に回したので、いつ殺されるか判らないことから、東寺が大山庄に派遣した代官に泣きつき、下人でも良いから命を助けてくれと懇願し、この代官は西御所様(東寺の公家僧侶カ)の料所である伊勢・近江に隠れさせ、1年程ほとぼりが冷めるのを待って大山庄へ連れ帰り、太刀などを持たせかもん(掃部)になしたと書いています。

則ち、ゑもん入道のゑもんが苗字ならゑもん太郎となる筈ですが、彼は左近太郎と名乗っており、後にかもん(掃部)と名乗るようになったことが判ります。

この文書から、律令制の官職を一部略して地下沙汰人などの百姓に名称として与えたことが判ります。同様に左衛門、右衛門、兵衛、庄司、治部などがあります。従って禁裏領山国庄に残る官職を苗字にしたというのは、苗字ではなく単なる称号であろうと考えます。

恐らく坂田聡先生はこの史料をご存知なかったことから、官職を苗字としたと推定されたのだと思いますが、武家が左衛門尉に任官されると、その後は通称ではなく官職の左衛門尉殿と呼ばれるようになります。

文書に記載するときの署名は元々苗字を書かないことが慣例でした。

律令制によって決められた官職があり、左右兵衛尉(ひょうえのじょう)・左右衛門尉(えもんのじょう)ですと従六位になります。百姓が任官される事はないので、この律令制の官職の尉を付けず、庄園領主が農民に称号的与えたと思います。

この称号を一度得ると名誉職ですので代々に亘り相続して行きます。それは庄園領主から見れば、この官職を名乗っている者は領主が直接命令を下す対象者であることをも意味します。在地役人が死亡の後、子供にその称号を相続させれば、それは則ち庄園領主への隷属義務を相続した事にもなります。然し、上記の様に親子で同じ称号を相続するとは限らず、それを以て苗字としていたと断言することは聊か言い過ぎではないかと思います。

この史料の後部に「小塩村検地帳」があります。田地を誰に割り与えているか詳細な記録です。そこには殆ど苗字はございません。辛うじて、治部、兵衛、衛門、がある程度です。参考になればと思います。

幸いなことに、同志社大学が調査研究しましたこの報告書は、昭和39年の発刊ですので、既に著作権(50年)の保護期間を過ぎておりますことから、ここに掲載しても著作権法違反に問われることはないと考えます。私の考え方に問題があれば、誠にお手数でございますがご指導、ご叱責を賜れば幸いです。

同志社大学の調査は2回に分けて行われたようです。まだ他のPDFファイルもございますが同様のものですので、幾ら古い記録だと言っても、個人名が書かれている事から、出来る限り公開は控えるべきと考えております。従ってブログには一つだけ掲載させて頂きます。研究者の方は同志社大学の紀要にリンクを作っておきましたので、それをご覧ください。

「中世末期の丹波国山国庄」仲村 研 同志社大学人文科学研究所研究員(助手)
同志社大学人文科学研究所紀要 1964-02-25 

中世末期の丹波国山国庄

「中世山国庄史料」第三研究歴史班  同志社大学人文科学研究所紀要 1963-04-25

中世山国庄史料

公開しているのは 「中世山国庄枝郷史料」 第三研究歴史班 同志社大学人文科学研究所紀要 1964-07-06 この史料には太閤検地により田畑一枚毎に百姓名、石高、面積等が掲載されています。仍ってこの史料だけダウンロードしてサーバーにアップし、読みやすくしました。

中世山国庄枝郷史料「中世山国庄枝郷史料」 第三研究歴史班 同志社大学人文科学研究所紀要 1964-07-06

山国庄にお住いの方々の協力もあり、貴重な史料をお借りされ翻刻なさいました仲村先生・院生・学生の皆様に多大の感謝を申し上げます。このサイトに掲載することで、半世紀以上前の論文ですが、若い研究者の目に止まり、新たな研究のきっかけとなって頂ければ幸いです。仲村先生は既に物故者となっておられますが、素晴らしい研究を残して下さったと感謝いたします。合掌。

なお、実際にご覧になる時は、「View Fullscreen」でご覧になれば見やすいです。

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