明治の食肉・酪農と市町村制

京都・丹波

歴史を研究していると嫌でも被差別問題に直面しなければならない。これは単なる歴史ファンだったら気づく事も無いだろうが、中世・近世の文書を読んでいると、必然的に直面するのである。避けて通ることは出来ないと言って良い。

奈良県では県庁の内部に同和問題関係史料センターを設置しておられ、所員の方々は在地の史料を探し、実に実直な研究をしておられる。
それらの研究は書物として公刊されているが、同時にPDFファイルとしてセンターのホームページで読むことも出来る。また、ファイルをダウンロードして自分でプリントアウトして研究することも出来る。

明治の初期、郡山藩は解体されたが未だ郡山県として纏まっていたころ、曾祖父が食肉に関する事業に関係していたことが手紙に残っている。

武士と明治初期の食肉について何の知識も持ち合わせていなかった私は、センターへお電話させていただき、明治初期の食肉・酪農に関する史料が何かないかお尋ねした。

郡山藩執政の子孫が同和問題を研究している処へ出向き、史料を求めるというのは如何にも不自然であるので、事情を詳しくご説明させて頂いた。

幸いにもご了解頂き、日新紀聞(奈良で初めての新聞)を史料として発行されていたこともあり、奈良市西寺林にて郡山藩の士卒の者が初めて食肉販売を生業として行っていたことを知ることとなった。

その後大正期に聞き取りをされた旧士族の方の証言により、郡山の西岡町にて旧郡山藩士が食肉販売を生業としていた事も判った。

しかしこれらの新しい職業も明治初期に流行した牛の伝染病により、奈良県の酪農は壊滅的な打撃を受け、食肉の継続的な供給を続けることが出来ず、武士による食肉販売は中止に至らざるを得なかったようである。

史料センターへは何度もお伺いさせて頂き、多くのご示唆を頂いた。また、各地で出版されている同和関

係の雑誌や論文なども読ませて頂いたり、多くの史料をコピーをして頂いた。特に私の遠祖が領した中世丹波○○庄内の□□村は近世の◇◇村に当り、中世庄園時代にはまだ人がごく僅かしか住んでいなかった地域であった。何時の時代から近世の穢多村として存続し始めたのか極めて興味深い場所である。幸いにしてその村の寺院には近世の史料が残っているので、今後ゆっくる考察したいと思う。センターの所長はじめ職員の皆様には本当に親切にして頂いた。改めて感謝申し上げる。

曾祖父はその後奈良県中部へ官憲として赴任し、明治十三年に葛下郡高田(現在の大和高田市)より書状を出している。その住所には南郡山町と書き、当時葛下郡高田村寄留と記されている。

明治初期から中期にかけて、旧藩士(士族)は経済的に窮乏する者が多く、彼らは政府から暴動を起こさないか、厳しく管理されていたようである。薩摩・筑後・萩・秋月と各地で旧士族の反乱が続いたが、郡山でも明治初期に一度奈良へ強訴を行った旧藩士が居たため、監視は厳しかったようであった。

明治十九年に旧郡山藩主が政府に旧士族救済の嘆願書を提出しているが、その時の住所はまだ南郡山町で名簿に載ってる。
しかし、翌二十年頃には本格的に高田へ移住せざるを得なかったようで、明治二十三年には市町村制実施に当たり、高田の戸長として職員録に残っている。

時は急激な文明開化へと進み、高田には王子から鉄道が引かれて分岐点となり、一部は和歌山へ、もう一部は桜井へと続くこととなった。

この経路の決定に当たり曾祖父は最高責任者であったらしく、近隣の者達からその経路を知らせるよう圧力を受けていたそうであるが、決して他言しなかった。

当時4つの郡が一つの行政単位となっており、その役場は御所に置かれていた。しかし、御所だと4郡の北部の者が役所へ行くには一泊しなければならず、大変であることから、県議会は高田に役所を移すことを議定した。

それに対し、御所では猛烈な反対運動が繰り広げられ、明治22年12月31日、大みそかに4郡の寺では除夜の鐘が激しく乱打され、御所河原に3000人の群衆が集まり、気勢を上げるに至った。驚いた警察や郡役所が宥めに向かうが、群衆は御所の役所・警察署・高田の役所を襲撃し、郡長は地元より役所移転反対の決議書を持たされ、奈良へ追放されるに至った。

これ以降郡長が御所へ戻ることは無く、葛上・葛下・十市・忍海の4郡は奈良県に指示に従うことは無く、独自のアジールを形成していったようである。

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