丹波国氷上郡 真宗会所に関する史料を見る

京都・丹波

歴史の史料を読み解いて行くと、思わぬ史料に出くわすことがある。
過日より何度かこのサイトで書いているが、新修亀岡市史には桑田郡のことだけだけでなく、亀山藩が飛び地として支配した丹波氷上郡や備前の史料が含まれている。

今回は氷上郡の真宗会所についての史料を読み解いてみる。なお、この会所のある場所は現在の同和地域とされているので、地名・人名・寺名については全て〇〇で記載する。
文末に私の考えを述べるつもりである。

寛政四年(1792)八月にこの〇〇寺がこの会所の相続を願い出ている。

松平又七郎様御領分丹波国氷上郡東西〇〇村の内嶋者、拙寺門徒ニ而御座候処、先年より三間四面之会所ニ、蓮如上人様御染筆六字名号奉安置拝礼仕来候処、年数者相知レ不申候、然ル処、村方難渋之節右会所及破損、隣家〇四郎と申者方ニ而暫会合仕申候所、廿二年(明和八年)以前卯年本村役人江願出候処、聞届之上建直シ仕候、其後十七年以前申之年(安永五年)、御本山御役所江奉願上、木仏尊形並御札被為御免下拝礼仕居候。時々法会之節、拙寺方より喚鐘持参仕相勤申候処、去冬右〇〇村寺院禅宗流泉・同日蓮宗法蓮寺・御本山末寺西源寺、右三ケ寺より寺院ニ紛敷、殊ニ新寺等と寺社手代迄被訴出、依之拙僧被召出是迄不願出候段ゝ被仰聞候。依之右不届之段、御断り申上候得共、何分右三ケ寺破却可仕由、追々被訴候而埒明不申候、

(以下略)
この史料は道場であったものに両袖に建物を増築し、半鐘を釣り、寺の形にしたことから、同郡の他の寺院からクレームが付いたことが発端である。

この村は元々一つの村であったが、いつの時代からか東西に分かれ、夫々庄屋・肝煎が決められていたが、穢多は両村にまたがって住んでいたようである。

江戸時代、寺は寺社奉行の支配下にあり、新儀に寺を作ることは認められなかった。
為に、寺のない村々は道場という名の集会所を作り、そこに六字名号を掛け、近隣の寺院より僧侶に出張して貰い、仏事を行うようになっていた。
何もこれは穢多村だけのことではなく、殆どの村々で浄土真宗にの布教に応じ作られていたものである。

既存の寺からクレームが付いたのは、穢多だからという訳ではなく、真宗に帰依して自分たちの寺に寄り付かなくなり、お布施が集まらなくなったことが原因であろう。

クレームを付けたのは、宗派関係なく、近隣の寺が共同して行ったようである。
その内容が、これは寺だから認められない。従って建物を破却せよと迫ったのであった。
この訴えを出した中に同じ浄土真宗の寺が含まれていることが興味深い。

この穢多たちは、〇〇寺の檀家であり、本来ならクレームを付けた寺は関係ないはずだが、彼らが恐れたのは自分たちの檀家達が同様に村内に道場を経て、自分の寺から離れることが出来るという前例を作ることにあったと思われる。

このあと、もう一つ史料があるが、長くなるのでそれは省略する。

会所一件ニ付請書写   ○○寺文書 新修亀岡市史所収
差上申一札事
                         氷上郡両○○村
                          穢多惣代    〇兵衛
                               〇 助
                               〇 七

其方共儀会所小屋壱軒相建度段、廿三年以前(明和八年【1771】)卯年村役人迄願出、其後不相願追々修理を加え寺形チニ致し候上、村役人指図とハ乍申、三年以前亥年半鐘を釣り候段、一同不埒ニ付、本仏半鐘〇〇寺江相渡、且追々修理を加え候三畳敷宛之両袖・墨漆之丸柱弐本・板張り之組天井・三方之板縁等ハ取払候上、過料三貫文申付ル但し過料銭之儀ハ三日以内役所へ可相納右之通被仰渡承知奉畏候、尤過料之銭之儀ハ三日之内御役所へ可相納旨被仰渡、是又承知奉畏候、若相背候ハゝ重科可被仰付候、仍而御請証文差上申処如件

寛政五(1793)丑年四月                      〇 兵衛
                              〇 助
                              〇 七
公事方
御役所
前書被仰渡之趣、私共罷出承知仕候、依之奥書印形仕差上申候、以上
                氷上郡東〇〇村
                      庄屋仮役
                           〇田 新之丞
                      肝煎
                              文 〇
                    西〇〇村
                       庄屋
                              〇右衛門
                      肝煎
                              〇左衛門
                              △左衛門

亀山藩が出した処分は寺の形にしたことは良く無いので、増築した分は取り壊せ、仏様と半鐘は〇〇寺で保管せよ。今で云う違法建築をしたので、罰金として三貫文を支払え。というだけで、元の道場はそのまま存続を認めたのであった。

歴史学者によっては、この判決は穢多を差別した云々と言われる方もおられるであろうが、私はそうは思わない。新らしく寺院を作ることが出来ないことは皆わかっている訳なので、そのことだけを処分の対象としたのである。
ある意味で公平な判決と言えよう。

先日所用があり、奈良県の同じような村へ行き、今は寺院の名が付いているが、江戸中期に道場であったところへ行ってきた。数年前に建て替えられたとのことで、新しい御堂が建っていたが、御堂だけで、両袖には何も無かった。
この村(今は市に編入されている)は郡山藩郷鑑によれば、殆どが本百姓で、水呑は一軒だけしかいなかった豊かな村である。当然非人(番)は男女各一人いるが、何の問題もない村であった。
その村が今日寺院の名称を名乗っているが、建物は中世そのままの道場である。
依って、前掲の丹波の訴訟は穢多だから云々という事ではなく、既存寺院の経営に危機感を覚えた住持達が共同して訴訟を起こしたのであろう。

私はこの穢多達の経済的な余裕を感じずにはいられない。村が難渋した頃道場は破損に及んだことから、新しく建て替えをしており、其の後も着々と改築を加え両袖を増築し、墨漆塗りの丸柱まで建築しているその経済力に注目している。

付近の寺院より余程豊かであり、新築の道場は目を惹いたことであろう。それは自ずからここに参集する人たちの言動にも現れるであろうし、近隣住民からみれば「増長した」と受け止められた可能性は否定できない。そうなることは重々承知の上で増改築に及んだのではなかろうか。村社会への挑戦であったと捉えたれても已むを得ない状況だったと考えられる。

度重なる風水害による不作や経済の停滞により、藩や村は徹底した質素倹約を続けており、日常の冠婚葬祭においても厳しい倹約が求められていた時代である。そんな状況の中で道場を増改築して贅沢に及んだと非難されても当然の状況にはあった。

亀山藩の判決は、不法に増改築した部分の撤去と木仏・半鐘を〇〇寺にて保管することとしただけで、道場の存続は認めており、極めて穏便に事を収めた名判決だった感じはある。訴え出た者達に対しては被告に増改築の撤去と三貫文過料を申し付けたことで納得を得られたであろうし、被告にとっても増改築が違法なことは判っているので、撤去と過料はやむを得ぬことと納得できたであろう。過料を3日以内に役所へ納めることをいとも簡単に承知している。私は彼らの経済力は近隣の村々と比較すると飛び抜けたものがあったのではないかと感じざるを得ない。

同和問題は中々難しく、私のような武家出身の者には理解し難い事が多い。特に昨今同和を語り、行政より金を引き出した者達を報道で見るたびに、貴方たちの遠祖はもっと立派に生きていたのではないかと言いたくなる。

人夫々生まれ育った環境を受け入れざるを得ない。私の遠祖とて、武家であったが故に戦乱に巻き込まれ、多くの者達が命を落としている。誰が喜んで戦争をしたいというのか。誰でも紛争のない穏やかな生活を送りたい。しかし、世間はそうさせてくれない。逃げ隠れすることは出来ないのである。その中で如何に生きるか思考してゆくしかないと思う。

この史料をネットに上げることに戸惑いはある。しかし、歴史史料は嘘をつかない。
今、奈良県は同和問題関係史料センターを設置され、所員の皆様は実に実直に古い史料を探し、解読・研究して毎年書籍を発行するとともに、インターネットのホームページでPDFファイルにして公開されている。私はこのセンターに何度かお邪魔して多くのことを学ばせて頂いた。
センターの皆さんとお会いすることがなかったら、この氷上郡の史料に目を留めることはなかったと思う。

同和問題がいつになれば終焉を迎えるのか誰も判らないだろうが、被差別者団体に所属しておられる方々は、ぜひ、中世・近世の歴史史料を、第三者の目で俯瞰しながら読んで頂きたいと思う。

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