室町幕府奉行人の署名方法

中世史

極々偶にであるが、ネットに書かれている歴史関係のご質問にお答えすることがある。
ここ2~3年は殆ど書かなくなったが、10年ほど前は時々書いていた。
その中で、源平藤橘などの姓・朝臣と書いてあるものについてのご質問があったので、お答えしたことがあった。
現在はもう知恵袋では検索しても見つからないが、そのダミーになっているBigrobeではまだ残っている。まあ、ハンドルだけで書いているので、クレームをつけることもできないし、やむを得ないと諦めてる。

【源氏、平氏】

たまたま歴史の小説を読んでいて、疑問に思ったのですが・・ 小説の中で武田太郎源朝臣晴信とありました。確かに武田家は河内源氏を汲む家柄なのでそうかなと思いましたが、平朝臣ってのも使われていたんでしょうか?

江戸時代の時は徳川宗家、御三家あたりまで使われていたんでしょうか?それとも一門あたりまででしょうか?他大名はほとんど平氏?

源朝臣と使う場合ってどんな時なんでしょうか?詳しい方は是非教えて下さい!
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というご質問でした。

当時の御答えは史料を書きませんでしたので、実際の史料を追加して、判りやすいように書き直しておきます。

朝臣(あそん)は五位以上に叙爵(自称ではなく)された人が称することが出来ましたが、普段発行する文書には、実名、若しくは官途名だけを書きました。
源朝臣・平朝臣・神宿禰、三善朝臣などと署名しているのは、不特定多数に命ずる文書の場合が殆どのようです。(過書や禁制など)

室町時代の幕府奉行人奉書では

不特定多数に対する禁制(寺院宛て)や、朝廷や幕府公用人の通過や年貢米の運送時に関所を煩いなく通過させるようにという証明書(過書と言います)を発行する場合。
朝廷や門跡寺院など、皇室に関係する庄園について、年貢を直務(じきむ)されることになったので、武家関係から外れ、皇室・公家・門跡などに直接支払うようにというような、公家社会とかかわるような命令書に、朝臣などが書かれています。

【室町幕府奉行人連署奉書・これは過書です】
飯尾虎一年貢米二拾石自江州田上運送云々、諸関渡無其煩可勘過之由、被仰出下也、仍執達如件。
「読み下し」
飯尾(いのお)虎一の年貢米二拾石、江州(ごうしゅう 近江国)田上(現在の滋賀県大津市田上〔たなかみ〕より運送すと云々。諸関その煩いなく堪過(かんか・堪忍して通させること)すべきの由、仰せ出し下されるなり。よって執達(しったつ)くだんのごとし。

   延徳元年(1489)十一月十一日
                散位三善朝臣 判(飯尾清房)
                備前守源朝臣 判(中澤之綱)

室町家御内書案 室町幕府奉行人奉書集成(上)
散位とは、五位の〇〇守であったものが、四位に叙爵(じょしゃく)され、まだ四位相当の官職についていない時に使われます。この被仰出下也は室町将軍がと言う意味です。

【室町幕府奉行人連署奉書・これは禁制です】
禁制
吉田社境内
一、伐取竹木付芝放飼牛馬事、
一、百姓等不善住当所、
一、田地作職不請社家下知、或令沽却、或入質物事、
右条々、任社例堅被停止訖、若有違犯輩者、可被処罪科之由、所被仰下也、仍執達如件、

       延徳二年(1490)閏八月九日
                    散位三善朝臣 判(飯尾為規カ)
                    備前守源朝臣 判(中澤之綱)

室町家御内書 室町幕府奉行人奉書集成(上)

【室町幕府奉行人連署奉書・これは公家社会関係の奉書です】
近江国犬上郡清水本庄内本所分事、当知行之処、有押妨族云々、不日可令停止其妨之旨、被成奉書訖、然早任先例可被全直務之由、所被仰下也、仍執達如件

延徳元年(1489)十二月十四日          沙 弥(花押)(斉藤基周)
                  備前守源朝臣(花押)(中澤之綱)

勧修寺文書 室町幕府奉行人奉書集成(上)
沙弥というのは、在家出家した人のことを指します。本来は出家したばかりの人のことで、小僧さんに良くつかわれます。出家しますと、官職は全て辞任しなければなりませんが、奉行人としての職務はそのまま勤められました。

武家・公家(奉行人と同列もしくは下位の公家や寺社)に対する文書になると、官職+花押となります。

【幕府奉行連署奉書案】
法勝寺(山城)領延勝寺(山城)敷地事、今度依有退転之旨、証人雖被仰付孝阿、為當寺領帯度ゝ証文、當知行之上者、弥可被全領知之旨、所被仰下也、仍執達如件、

天文十年(1541)六月廿日           大和守(飯尾堯連) 在判
                 掃部助(中澤光俊) 在判
當寺ゝ僧中

大日本古文書 蜷川家文書三

【幕府奉行人連署奉書 中澤光俊 松田盛秀】
当寺三昧堂事、任 綸旨并去天文九年十月五日奉書之旨、重被成御下知訖、弥守先例、可被専結縁之由、所被仰下也、仍執達如件、

永禄三年(1560)八月十二日       備前守(花押)(中澤光俊)
                  対馬守(花押)(松田盛秀)
浄福寺住持真澄上人

浄福寺文書 室町幕府文書集成 奉行人奉書篇(下)

明らかに奉行人より身分が低い者に対しては、実名+花押になっています。

【室町幕府奉行人連署奉書案】
高野安養院雑掌申摂津国得位時枝年貢参分壱事、乍被所務、去年分一向難渋云々、甚無謂、所詮、任証文等旨、如先々向後可直務之趣、被成奉書訖、可被存知由、被仰出也、仍執達如件、

長享三(延徳元)(1489)
   八月廿一日            之綱 判 (中澤)
                    貞道 判 (諏訪)
松梅院

北野社家引付 室町幕府奉行人奉書集成(上)
松梅院は当時の北野社(現在の北野天満宮)を代表する寺院。神仏混合の時代です。

【室町幕府奉行人連署奉書 中澤光俊 諏訪晴長】
嵯峨境内内土倉中申対当所輩口入要却事、於愛岩(宕)神用者、不混自余不可有改動之段、帯度々御下知上者、存知之、早速可令返弁、更不可有難渋之由、所被仰出之状如件

永禄六(1563)
  十一月廿日            晴長(諏訪)
                   光俊(中澤)
仁和寺借主中

山科家古文書 二 室町幕府文書集成 奉行人奉書篇(下)

飯尾、中澤、松田、諏訪、等の苗字は文書に署名しません。彼ら奉行人は鎌倉時代からの武家官僚の子孫で、三善氏、源氏、平氏、神氏、として、公家や武家の間で「由緒正しい人」として認識されていました。江戸期のアヤシゲな家系ではありません。
永禄年ころの奉行人は
前大和守三善朝臣(花押)   (飯尾尭連)
備前守源朝臣(花押)     (中澤光俊)
丹後守平朝臣(花押)     (松田藤弘)
信濃守神宿禰(花押)     (諏訪晴長)
などが見られます。
これらの文書は畳まれて、上包みがあったようで、そこには、○○殿  ○○□□守と署名されていたようです。

署名方法の違いについては、私の主観的な見方ですので、先生方からツッコミが入るかもしれません。

室町幕府文書集成 奉行人奉書篇(上下) 今谷明・高橋康夫共編 思文閣出版 が大学や県立レベルの図書館にあります。ゆっくり眺めて下さい。

〇 アイキャッチは東寺文書に残る室町幕府奉行人連署奉書

散位は前備前守中澤之綱 和泉守は清貞秀

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