その時歴史は動いた・・・というテレビ番組があったように思う。確かNHKだったように思うが、違っていたかもしれない。
古くは大化の改新から第二次世界大戦の敗戦まで、我が国にはその時々大きな歴史の転換期があり、その時多くの血が流れた。
拙家は源平合戦頃には既に武士として一定の勢力を持っていたようで、源平合戦が終了し、源頼朝が鎌倉に本拠を構えたのち、建久元年(1190)後白河法王の要請により精鋭1千騎の御家人を率い上洛した時に、前衛を勤めている。
その後承久の乱(1221)の勲功により丹波国多紀郡大山庄・同国桑田郡弥勒寺別院庄の地頭職を賜い、後年多紀郡大山庄に居を移し、同時に京都六波羅探題の官僚として在京するのであるが、庄園領主の京都東寺との間で庄園の支配・年貢の支払いに関し様々な紛争を繰り広げ、隣庄の九条家領宮田庄との境にある山野・河川の流末に関しても訴訟を繰り返した。
多紀郡大山庄へ入部した地頭は年貢の十一分の一を地頭給として取得出来るほか、下地(土地とそこに住まいする人への支配権)への支配権を受け取り、先例に任せて年貢を送っていたが、年々その支払いを渋り、堪り兼ねた東寺は京都六波羅探題へ訴訟を起こす。
これでも決着がつかず、関東(鎌倉幕府本体)へ訴訟を提起し、様々な工作をした結果、弘安十年十二月十日になって関東下知状が出され、東寺との争いに一応の決着を得た。
関東下知状 (東寺百合文書 楽一-八)
東寺領丹波国大山庄雑掌与地頭中澤三郎左衛門尉基員同六郎宣基七郎基村等争論条々
一、請所事
右、六波羅注進訴陳状具書子細雖多、所詮自仁治三年至文永二年雑掌致庄務之状、百姓散用之状顕然也。而地頭昇蓮(基員亡父)相語一代之雑掌所請申也。為頗倒之、且任旧例被避付地頭職於寺家歟。将又可被中分下地由、雑掌訴申之処、如基員陳状者、当庄者為承久勲功之賞、中澤小次郎左衛門尉基政拝領以降地頭三代無相違。且可為請所之由、六波羅仁治二年御下知明白也。(以下略)
以前条々、依鎌倉殿仰、下知如件。
弘安十(1287)年十二月十日
前武蔵守平朝臣 花押(北条宣時)
相模守平朝臣 花押(北条貞時)
さて、この下知状によれば、東寺は地頭職を拙家から取り上げて、自分に付与してくれ、そして、仁治三年に地頭二代の昇蓮と東寺の雑掌との間で取り決めた、地頭請は一代だけの権利しかない雑掌(東寺の役人)と契約を交わしたのだから、その雑掌が替わったら無効だと、誠に都合の良い論理を繰り返している。
そしてその訴状に対する陳状(反論)に中で、この地頭職は承久の乱の勲功の賞として補されたものであることを述べ、それを鎌倉幕府が確認している処に大きな意義がある。
抑々、源平合戦や承久の乱を経て関東の御家人が補された地頭職は三千カ所あったと言われるが、その中で補任状が現存している者は極僅かである。拙家に於いても天正の落城により公的文書は焼失しており、伝来していない。
在地での地頭伝承を公的証明として確認出来る文書であり、極めて価値が高い。
この下知状によって、地頭請の契約がなされていたことが判る。また、東寺には地頭昇蓮の代官からの年貢送状も残存しており、地頭請当時の年貢や手工芸品など、その内容は極めて多く、平安時代の年貢の殆ど変わっていない。地頭の入部から地頭請、下地中分への流れは歴史の通史に書かれ、又、高校の教科書にも書かれている。