幕末の動乱はその勢いを止めることは無く、薩州・長州の先方は伏見城を守る幕府へと突き進んでいった。正月だというのに彼ら何故新年を寿ぐことをしなかったのだろう。
兵庫沖に停泊した幕府の艦船が2日の夕方に薩摩の艦船を砲撃したことが端緒だった。
しかし幕府をそこへ追い込んだのは薩長を始めとする新政府軍であった。
丹波亀山の町人で、幕府御用も務めた杉原氏はこの動乱を毎日克明に日記にている。
三日の夕方より伏見辺大火の風説有之。追々夜中諸大名之早追飛脚通行。会津桑名藩戦鋒与して徳川家譜代之御家臣麾下ノ衆と、勅命を以薩藩長藩伏見並鳥羽街道ニ而戦争初(ママ)ル。
死脳(体カ)如山有之旨相聞、尤当地家中惣礼格以上陣羽織ニ而御屋館詰、又々京都江一番手奥平与惣左衛門頭ニ而人数四五百人繰出有之
予想はしていただろうが正月早々の戦乱で度肝を抜かれた亀山藩は慌てて人数を出すも、京都へ向かう途中で、相手方より「朝敵になるぞ」と脅され、いとも簡単に引き下がってしまった。
薩長と公家達の連携は見事であり、翌四日には淀城がおち、仁和寺の宮を大将として、錦の御旗を淀川に川辺に翻した。
翌五日には八幡・橋本辺を席巻し、怒涛の勢いで大阪城へ向かっていたが、それと同時に、丹波を抑える為の手段を怠らなかった。
夕方には北山水野(尾)の山道を越えて、西園寺公望が丹波の馬路村へ入り、代々幕府に抑え込まれてきた地侍達、則、弓射連中として地元で勢力を保ってきたものを完全に支配下に置いてしまった。
これによって、丹波国桑田郡・船井郡の両郡にある亀山城・園部城は地侍たちから完全にそっぽを剥かれ、孤立してしまった。
馬路村では中川・人見の両性が絶大な権威を持ち続けており、馬路の隣になる保津村は
桂・村上・長井・広瀬・長尾の五苗が支配するところである。
馬路・保津を抑えることで、桑田・船井の徳川麾下の藩は手も足も出なかったのである。
明治になってから亀山藩が提出した武器弾薬一覧が亀岡市史に載っている。これを見ると、篠山藩・園部藩と共に戦端を開いていれば、或いは歴史は変わっていたかもしれない。
丹波亀山・篠山の城は平城ではあるが、それなりに防御を敷いた名城である。それなのに籠城もせずに易々と降参するなど、武士のすることではない。亀山・篠山両藩の腰抜け侍共と非難されても仕方がないだろう。
丹波が立てば、近江や大和の諸藩も立つだろうが、誠に情けない侍たちであった。
丹波の弓射連中の活躍はまた後日書く。