昨年NHKのファミリーヒストリーでジャーナリストの鳥越俊太郎氏の家系偽装が大問題となり、ネットを賑わした。私もブログに少し書いておいたが、いまふと思いついてNHKのサイトを見たら、なんとこの番組が打ち切りになっている。
昨年の末から今年の初めであったかもしれないが、NHKから私のサイトを見にきておられた。
判らないだろうと思われるだろうが、少し詳しく解析できるものを組み込んであるので、接続サーバーまでは判明するのだ。
別に私の書いたものが影響したなどとは思わないが、鳥越氏だけに限らず、この家系探求番組自体に結構批判があったように思える。
私はこのサイトに何度も書いているが、家系はその家の絶対秘に属するものであり、玩具(おもちゃ)にするものではない。単なる興味本位で触るものではない。
苦言ばかりを呈しているようだが、元ボクサーで今はタレント・俳優もされている赤井英和氏の家系について、丹波の赤鬼と恐れられた戦国武将、赤井悪右衛門直正の後裔であるというお母さんの言い伝えを辿り、ご実家へ赴き、仏壇に安置してある過去帳に直正の弟の家系だという、江戸期の記述を元に、赤井一族の後裔だったという番組は、中々しっかりしたものだった。
丹波国氷上郡の黒井城は第二次の明智総軍に囲まれ、直正の病死後急速に勢いが衰え、少し戦闘したようであるが、大きな戦にはならず、開城して降参したのだ。
直正の子はまだ幼少であったので、叔父である幸家が後見として黒井城主とし盤踞していたのである。
現在京都におられる直正の直系子孫を探し出し、NHKが取材したが、藤堂藩(初代藩主は藤堂与吉高虎)に仕えた赤井氏の直系子孫には、赤井英和氏が縁者であるとの認識はなかったが、江戸期に書かれた赤井家の家系図には確かに直正の弟、刑部大夫幸家と戒名の記述があった。
今回はNHKもしっかり取材したようで、英和氏のご本家である篠山市口阪本のご実家へ赴き、ご仏壇に祀られている過去帳を確認しておられる。
そこには確かに初代として赤井時家の子として直正の弟である幸家が書かれており、刑部大夫という官職も書かれており、ほぼ間違いのないところであろう。
この過去帳は実に重要な記録がされており、赤井幸家の実名を中心に書いているが、その右側に釣月と幸家の戒名が書かれており、それが京都の赤井直正直系子孫が伝承されている家系図にも実名と共に戒名が書かれており、それと一致している、
黒井城開城後、氷上郡から落ち延びた赤井一族の動向ははっきりしないが、英和氏のご実家が篠山市口阪本に居を構えてこられたことは、拙家と全く関係がなかったとは思われない。
黒井城開城の1年前、拙家の丹波大山城は明智総軍の急襲を受け、城主以下菩提寺長安寺や大乗寺の僧徒をはじめ、領内の名主など家臣一同は奮戦するも、衆寡敵せず、若き藤堂与吉高虎(後に赤井直正の子が仕官する)に一番乗りの功名を許し、城は炎上し、城主は自刃し、落城している。
戦後の混乱が落ち着いたころ、大山の中心部には一分地頭職を持っていた一族が戻り、大山の周辺にも同族が残っている。
明智光秀は大山を抑えた後、氷上郡との境界になる多紀連山の金山に城を築き、多紀郡と氷上郡を分断した。これは多紀八上に拠った波多野氏への応援を遮断するとともに、第一次の丹波攻めの際に苦汁をなめた赤井一族へ報復する執念に燃えていたのである。
天正7年と思われる光秀の書状が雨森善四郎氏により採取され、東京大学史料編纂所に写本が残されており、それを亀岡市史が採取している。
興味深いのでここに記載する。
【明智光秀書状】(天正7年カ)9月23日
(前欠)自然、かハらのもの共、京都御普請ニ隙(カ)入候て、貴所御下知候(カ)て、難被仰付候ハ、村七(村井七郎カ)成共、作右(村井作右衛門貞成カ)成共被仰候て、かならす夜を日ニ付、御馳走可申候、以上
追而申候、かハらの者、□分にてまいり候者、村作右へ折紙候、不及被遣、御分別次第候、此外不申候。
(前欠)山へ取上、同二十一日ヨリ、先年拙者在城国領之城之上へ、源山を一里余切抜新道を付、同二十二日未明より国領へ取懸、申下刻ニ責破、悉打果、三ヶ年以来之鬱憤散候、因慈赤井城裏芦田一族城三ケ所令揆処、罷出候敵方無正体由候、同天田・何鹿両郡之味方中、相働候条、無残所申付候。恐々謹言
九月二三日 惟任日向守 |
光秀(花押) |
解説をする前に、当時の丹波多紀郡西部と氷上郡南部における勢力図を作っておいた。
これを頭に入れておかないと、赤井幸家の動向が理解できないだろうと思う。
天正六年八月に大山城の拙家、宮田庄南部の久下分家・同じく宮田庄北部の山名氏(但馬の守護大名山名の丹波における分領・一族は宮田氏とも呼ばれたことがある)を落とした光秀は、勢いを駆って、この地図には入っていないが、中澤氏の南方に拠った酒井氏も倒している。
その後、大山と氷上郡を隔てる金山に城を築き、両郡を遮断した。
この光秀の手紙は誰にあてたものなのか判明していないのであるが、三年前に丹波攻めを行ったときに裏切られた丹波の諸将を悉く滅ぼし、金山に築いた城から源山(原生林という意味であろう)を一里ほど切抜、氷上郡国領の上に出て、一気に攻め滅ぼし、黒井城の対面に強力な軍陣を構えたことを報告している。
この工事には在地の百姓達が多く動員されたであろうし、拙家の遠祖も敗軍の一族として動員されたであろう。大山庄の西部、追入(おいれ)から道をつくったようで、今でも微かにその痕ではなかろうかと推測される地形が、上空写真から見て取れる。
黒井には拙家一族の中澤外記が幕僚として応援に入っていたと丹波の歴史書は伝えている。これがどれだけ信用性があるのか不明であるが、黒井の東部にある三井庄は中澤氏の分領であったことは拙家系図にも記載されていおり、また、室町期の庄園史料でも確認できるので、領主職を持っていたとは思わないが、地頭職を持っていたことは判明している。
幸家が直正の子を匿い、逃げ延びたのには拙家が大きく関係していたと考えざるを得ない。黒井の南西部、柏原や久下方面は明智の軍勢で溢れかえっていたであろうし、逃げ道は北東部山中であったろう。そこから三井庄に隠れ、戦乱が落ち着いてから、宮田庄を通り遊楽庄の口阪本へと落ち延びたと考えるのが妥当かと思う。遊楽庄は大山中澤氏の有力一族が支配する処であった。
戦国期に黒井城から落ち延びた赤井一族とはいえ、どこでも適当に居住できるものではなく、その土地の有力者によって庇護されなければ、百姓達の落武者狩りに会い、到底逃げ延びることは出来なかった。なんとか生き延びても、乞食をせざるを得ないような状態になり、多くの者が自ら命を絶っていた、
拙家は丹波国多紀郡大山庄・遊楽庄・氷上郡三井庄だけでなく、桑田郡別院庄(摂津・丹波両郡にまたがっている)にも地頭職を持っており、別院の笑生路(わろうじ)に城を構えて光秀と対峙したが、のちに降参して丹波における光秀幕僚の一人となっていた。そんな事情があったのが影響したのであろうか、大山城では城主の自刃後、一族を悉く抹殺するようなことは起こらず、城主の妻子も捕らえられたが、桑田郡の一族と懇意であった西蔵坊に渡され、後に許されて氷上郡の分領へと落ち、その地で根を張って現在まで続いている。大山には一分地頭職(いちぶじとうしき)をもっていた有力分家が、大山の支配者とし戻り、爾来今日まで一族が続いている。
先日の鳥越氏家系報道ではミソをつけた番組であったが、赤井氏の家の調査は納得できるものだった。
私は口坂本赤井氏の過去帳を見た訳ではないが、願わくば、あの過去帳に記載されたものを墓石と照合し、次の世代へ伝えられるよう、幸家からの流れを出来るだけ判りやすく、文章にしておかれることをお勧めする。
ただ、残念なことは、幸家以降の祖先について、戒名だけで俗名が記載されていなかったように感じた。江戸期もおちついてくると、大名や旗本達の家系を調査するようになり、その影響は各地の土豪後裔たちにも及んだようで、そのころに過去帳を新たにし、遠祖の在地の著名人一族の後裔だという後書きをした家が結構あったようである。
過去に私が調査させて頂いた方の過去帳にもその形跡があった。当時の人は詳しいことは調べられないので、100年くらいの誤差があり、今だとすぐ突っ込まれるが、家系はその家代々で継承するだけのものなので、他人の目に触れることがない。
私は多紀明細記も篠山の図書館でコピーして蔵書しており、大山村史・丹南町史も蔵書している。これらの本や近世丹波多紀郡の歴史史・資料は結構読んできたつもりだが、赤井幸家の後裔が口阪本におられるとは存じ上げなかった。
江戸期は赤井という苗字を名乗っておられなかったので、書物に現れなかったのであろうか。江戸期に篠山藩・福知山藩などで調査した「丹波志」も何度か読んだが、多紀郡に赤井氏の一族後裔がおられるとの記述は覚えがなかった。それだけに、今回の赤井氏のファミリーヒストリーは興味深く拝見させて頂いた。
幸いなことに、赤井英和さんのご先祖は、口坂本のご本家が過去帳を大事にお祀りされておられるので、少なくとも400年以上続く家系であることがほぼ間違いないだろうと思われる位の傍証を得られた。今後は本家との交流を切らさないようにし、ご本家が遠祖の祭祀を行われる時にお参りさせて頂けるようご挨拶をし、次の世代に繋げて頂きたいと思う。
このブログで時々書いているが、家系と遠祖の祭祀は別物ではない。両方揃わなければ、どこかに可笑しいところがある。
家系がしっかりしているというのは、家系図があるからという事だけでなく、遠祖の祭祀を代々の当主が継承していることが家系なのである。
ご分家は、ご本家との縁を切らさずに交流を続けることが大事なのであり、家系図や過去帳の写しをもらったらもうそれでお終いでは、何の意味もない。
丹波の本家を大事にして、子々孫々が交流を途絶えさせないよう、ちゃんと伝えて下さい。年一回は、遠祖の位牌に御挨拶に行かれることを、ご家族で行ってください。
それが「家系の伝承」なのです。