最近蔵書している「亀岡市史」の史料篇を読みふけっている。
拙家は丹波国多紀郡に出自を持つので、大山村史・兵庫県史・丹南町史などから史学に入り込んだ。その後中世京都の歴史史料を、大学院生が読む以上に読み込み、拙家が関係していた史料をエクセルを使って年表にして保存してきたが、亀岡市(明治になって亀山から亀岡になった)付近は丹波国桑田郡になることから、幾分かの史料は読んでいたが、在地史料に目を通すことが殆ど無かった。
この亀岡市史は非常に良く出来ていて、史料の収集にかけてはピカ一と言ってよいほど素晴らしい編纂である。学芸員の皆様が如何に真剣に取り組まれたか、よくわかる。
中世庄園を中心とした社会から藩を中心とした江戸時代に入り、私たちは学校で歴史を勉強して来た時に、徳川幕府がすべてを支配したと教わってきたが、何々、京都周辺の皇室領はしっかり現存しており、在地の人々も鎌倉時代に地頭として入部した有力武士の子孫や、庄園の在地役人になっていた土豪など、藩主は何度も交代するが、在地の小領主的名主(みょうしゅ)は江戸期の庄屋・肝入などとなり、中世そのままの家格を維持しつづけいた。
特に顕著なものは、丹波国桑田郡・船井郡に連綿と続いた弓射連中である。
その起源は平安期まで遡るとの伝承があり、源頼政が居住した桑田郡五個荘には江戸期に亀山藩の家老であった松平敏(絶家になっていた松平但馬家を再興の為、長澤氏より養子に入る)が碑文を書いている。
この弓射連の面々は在地においては格段の家格を持ち、亀山藩の武士など、その出自については全く足元にも及ばない程の格式を持っていた。
このお歴々が唯一頭が上がらないのが、松平敏の出身本家であり丹波国多紀郡大山庄に本拠を置く地頭で、桑田郡別院庄にも地頭職(じとうしき)を持ち、一族は南北朝の動乱から室町幕府の崩壊まで武家奉行人を派した中澤(長澤)氏であった。
この弓射連が誇りにしている伝承の一つが、足利尊氏が丹波篠村で旗揚げした時に、馳せ参じ、室町幕府設立に寄与したことであった。
この時に丹波勢を率いて一番に尊氏に味方したのは、太平記でも有名な久下・中澤(長澤)の一族であり、江戸期の桑田郡長澤本家は、中澤氏の同族である。
室町後期にこの弓射連は中断し、その作法なども伝承が途切れてしまったようであるが、広瀬家文書によると、旧家の長澤氏のもとへ行き、弓矢の秘宝を探り出したという。
明智が丹波へ入った頃より、中澤・長澤は混同して使われることが多くなり、江戸初期に桑田郡の中澤氏が長澤を名乗り、子供が高槻藩に出仕したのち(おそらくは人質のように出仕させたのであろう)・篠山藩・亀山藩に転封の為移動したことから、多紀郡・桑田郡においても混同が起こったようである。
この中澤氏は室町時代、毎年正月に幕府で開催される「的始め」に出場しており、一族の久下氏も出場している。
足利幕府が設立の後の文和4年(1355)、尊氏は篠村八幡へ感謝を込めて社領を寄進し、篠村八幡は源氏の氏神として崇められ、尊氏は鎧・兜を寄進した。その時の催事を奉行したのは、中澤掃部頭(允)と依田(左近)将監(時朝)であった。
【室町幕府奉行人 中澤氏綱・清 連署奉書】 |
篠村八幡宮領丹波黒岡村年貢百五十石并雑具以下連々可有運送也、毎度以此過所諸関煩可堪過之由、所被仰下也、仍下知如件 |
応永五(1398)年十二月廿四日 |
左衛門尉清原 在判 |
左衛門尉源 在判 (中澤氏綱) |
醍醐寺文書 二 |
○黒岡村は現在の篠山市黒岡、篠山城の北北東にある。(当時篠山城は無い) 大山地頭一族が領した遊楽庄の東隣になる。
少し時代が後になるが石清水八幡宮に室町将軍の寄進状が残っている。
【室町幕府神宝奉献目録】 |
奉献 |
石清水八幡宮御神宝事 |
一 御神楽料足 弐拾貫文 |
一 砂金 弐?(せき) 拾両 |
一 銀釼(つるぎ) 五腰 |
一 御神馬 三匹 餝轡三口 |
己上 |
右、奉献如件 |
応永十六(1409)年十一月十九日 |
左衛門尉秀定(裏花押) |
沙弥 行靖(裏花押)(中澤氏綱) |
石清水文書之六 菊大路文書 |
篠村八幡宮は京都若宮八幡宮に準じて崇敬されており、恐らくこの石清水八幡へ寄進した内容とほぼ変わらないものだったと推定される。これに尊氏の鎧・兜を付け加えて奉献されたのであろう。京都若宮八幡宮は平安期に石清水八幡宮より勧進したもので、京都に居住する代々の源氏の氏神として崇敬された。若宮八幡には室町将軍参詣の絵巻が伝承されている。篠村八幡宮の催事はこの絵巻に記載されたものとそう変わらない規模で催されたことと推察される。
足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻は日本文化センターで公開されています。
広瀬家文書では足利尊氏の篠村八幡旗揚げの時、長澤七右衛門尉が奉行して彼らの名前を記し、尊氏に提出した処、ご機嫌斜めならずであったと、遠祖の武勲を伝えている。
この伝承が記された寛永12年(1625)頃、桑田郡の中澤氏は既に長澤を名乗ってり、当主が七右衛門を名乗っていたので、それに尉を付ければよいと思ったのであろう。
前掲の通り、尊氏の恩賞方奉行人として活躍したのは、中澤三郎入道性忍の子であろうと推察される、中澤又次郎信綱(掃部允・掃部大夫・掃部大夫入道定阿)である。同時期に摂津・播磨まで進出した中澤左衛門尉佐綱(桑田郡別院庄地頭)や天龍寺創建の落慶法要【康永元年(1342)12月5日】に参列した武将の中に中澤弥六左衛門尉兼基(多紀郡大山庄地頭)の名も見ることができる。いづれにせよ、桑田・船井両郡の地侍達は中澤氏の配下に入っていたことは間違いないだろう。
翻って、江戸中期に小百姓が他村で弓を習い始め、弓射連のメンバーである苗中(各村で苗字を名乗っている者)より禁じられたが、云うことに耳を貸さず、桑田・船井両郡の小百姓中に広まりかけたので、苗中より亀山藩へ訴訟が提起された。
参加していた小百姓達は広範囲に亘っており、亀山藩領だけでなく、何人かの旗本領にも跨っていたので、それらの旗本をも巻き込んで亀山藩の大騒動になった。
結果は苗中の申し立てが認められ、小百姓立達が弓の稽古をすることを禁じられ、入門を許した他村の苗中で弓の道場を開いていた者は詫状を出し、稽古に誘った小百姓達は叱り置かれたが、張本人であった旗本領の小百姓は、所払いの処分を受けている。尤も、女房・子供がその小百姓の後を相続することを認められ、騒動は幕を引くこととなった。
村々で、「三苗中」・「五苗中」と称し、絶大な威厳を持ち続けた庄屋連中が、幕末になって新政府軍の先頭となり、倒幕に貢献したことは、学校の教科書では出てこない話である。
明治になって廃藩置県・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていた頃、当時の篠村八幡宮も亀山藩の解体により、運営が困難となり、当時の神主は尊氏を始めとして代々の室町将軍・地頭中澤氏や江戸期の亀山藩主より寄進されてきた膨大な数の神宝を全て売り払い、莫大な金子を手にして逃げてしまった。
その足利尊氏が寄進した鎧・兜が今メトロポリタンミュージアムの宝物となっている。なんとも情けない話である。
神罰が下ったのかどうか確認することは出来ないが、少なくとも私はそれを知っており、後世に伝えるべきだと考えている。当時の神主の子孫は篠村八幡宮へ出入りすることは出来ないであろう。将来子孫が遠祖の歴史を誇っても、明治初期の悪行は消えることはない。桑田・船井の苗中たちはこの事を忘れないであろうし、子々孫々まで恨まれるだろう。これが神罰かもしれない。
尚、現在の篠村八幡宮の宮司はその泥棒神主の子孫ではないので、念のため書き添えておく。