440年前の一族訪問、丹波大山城

中世史

先日久しぶりに丹波へ行ってきた。主たる目的は440年ほど前に分かれた一族の後裔である老夫婦へのお見舞いであった。20年ほど前になるが、一時拙家が関係した庄園の歴史について武家の立場から見た庄園史的な雑文をネットに上げていたことがあり、それを見つけて頂いてそのご親戚から連絡を頂いたのが最初だった。
それ以前からその一族のことは多紀郡の同族より聞き及んでいたが、大山城落城の頃に氷上郡へ落ちられた一族の後裔になり、拙家と交流がなかったことから、敢てご連絡をとることはしていなかった。
ご連絡を頂き、早速丹波氷上郡へ赴いた。すでに80才を過ぎておられたが、まだまだ確りしておられ、その後私が研究してきた一族の歴史など、文章にまとめてあったものをお渡した。それに基づいて小冊子を作成されたりしておられた。
それ以降、毎年丹波の農作物などを送って頂き、本当に有難いことである。
今はもう98才と96才になられているが、ご夫婦でお住いになっている。この20年の間に病気で入院、手術されたことはあったが、ヘルパーさんなどの手助けは頂いているものの、ご夫婦2人でお住いになっている。誠に見上げた老夫婦である。
帰るときには毎回であるが、無農薬で栽培されたお米や野菜を頂く。これが何とも有難い。ご厚情が身に染みる。

今回は、多紀郡に残った一族の後裔にもお会いし、殆ど忘れがちである遠祖の歴史についても少しお話することが出来たのは幸いであった。この一族からも、朝掘のタケノコを頂いた。
遠祖所縁の地で採れた農作物を頂戴するのは、本当に有難い。

丹波大山城跡

丹波大山城 天正6年に明智光秀の丹波攻略に抗して落城した

従兄弟たちでさえ、分家してしまえばもう遠祖のことなど関係なしになってしまい、遠忌の連絡をしても返事も寄こさない。
戦後家族制度が崩壊したことにより、分家は本家の支配(実際には出来ないが)を受ける必要もなくなり、自分の親の葬儀やその後の供養をしておれば、遠い遠祖のことなどもう関係することも煩わしいと思うようだ。
「そんな知らない祖先より、生きている者にお金を使いたい」と、遠忌への関与を拒否されたことは、私には理解出来ないことであった。
それ以降、遠忌に関しては一切連絡しなくなった。淋しいやら、情けないやら、何とも表現のしようないが、世間一般はそんなものなんだろうと思う。

中世の大山城跡はまだそのまま手付かずで残っており、複数の方の所有になっているようだが、440年前の落城時の姿を残している。
もう既に何度か歴史研究機関の発掘調査も終え、城址には教育委員会が説明版を置いている。
このおかげで同族以外の方の所有であるが、開発されることもなくその姿を残してくれいる。
他人の土地へ無断侵入することになってしまうが、毎回城址を訪れるときには線香を手向けている。
今回も少しの時間であったが、440年前の戦闘で亡くなった一族の回向をすることが出来た。

丹波多紀郡の江戸の菩提寺裏にある一族の墓所へもお参りするのであるが、その場所が山の上にあり、高低差はそんなのあるわけではないが、急峻な崖のような階段(自然石)を這いつくばって登らねば為らず、もう体力的には今年が限界に思えた。
同行していた息子に、来年以降の墓参を託し、了解を得たので、これで一つ安堵が増えた。

400年余前の遠祖一族との交流は代々の当主が欠かさず行ってきたことである。不思議なように思われるだろうが、江戸初期に丹波篠山藩に入部した藩主に召し出され(実際は在地勢力を抑えるための人質)、その後藩主の転封により移住せざるを得なかった拙家遠祖は、在地との連絡を何より大事にしていたようである。
その縁が未だに続いているのは信じられないだろうが、私は有難く思っている。

私もこの年になって、少しづつであるが、次の世代へ引き継ぐことをやっている。息子はまだ若いので理解できないことはあろうと思うが、文章にして残しておけば、いづれそれを読む時期がくる。
その時に無理なく理解できるように、体が動くうちに少しでも史料調査を続けておきたいと思う。

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