丹波国桑田郡・船井郡には以前少し触れたが「弓射連中」という組織があり、その連中の後胤には結構豊富な中世史料が現存している。
江戸初期に書かれた「弓射連中」の由緒は過去の記事を見て頂きたいが、今回はこの連中の前身になる「丹波国桑田・船井両郡一揆衆中」に残る室町幕府二代将軍、足利義詮の御教書を紹介しょうと思う。
抑々丹波国は鎌倉時代、京都六波羅探題に赴任してくる北条氏の所領であった。その為、この両郡には此処を本拠とする地頭は任命されていなかった。
足利尊氏が鎌倉幕府への逆意を表したのが桑田郡篠村であったことは以前書いた。
この時両郡の在地土豪達が馳せ参じたことは江戸初期に書かれた弓射連中の由緒書とおりであろう。
武士として鎌倉幕府の御家人でなかった彼らは、単独で着到(ちゃくとう)することは出来ず、丹波国多紀郡大山庄を本拠とし、桑田郡別院庄にも分領として複数の地頭職(じとうしき)を持っていた中澤氏の配下に入り、名簿を提出したことは広瀬氏文書に記載するところである。(中澤信綱は時には軍事指揮権・軍勢催促権を持つ足利尊氏・義詮の恩賞方奉行人)
鎌倉幕府を討伐した後、後醍醐天皇のもとで建武の親政が始まったが、公家や女房など、みんな夫々欲張って所領を要求したことから、まさに朝令暮改の連続であり、この政変に多くの死者を出した武士たちにはほとんど恩賞はなかった。
それどころか、大山の中澤に対しては地頭職を否定し、東寺に与えてしまう有様であり、武士たちの心は瞬く間に離れていった。
その後尊氏と後醍醐天皇・新田義貞との間は修復不可能な状態になり南北朝の戦乱へと向かうことになる。
ここをこれ以上書き出したらキリがないので太平記を読んで頂きたい。
尊氏はこの間に光厳天皇を践祚させ、後醍醐天皇を廃帝とし、これから南北に天皇が存在する混乱へと入っていった。
その後尊氏と弟の直義(ただよし)の間もおかしくなり、互いに攻め合うこととなる。
そんな状況の元、一時尊氏が後醍醐天皇と和解を試みたことがあった。(降参とも言える)
その時代、正平年(南朝の元号である)に書かれた、足利義詮の御教書が丹波に残っている。
丹波国桑田郡馬路村の有力土豪である人見氏に残るこの軍勢催促状は桑田・船井両郡一揆衆中へ宛てて出されたもので、江戸期の「弓射連中」はまさに、この一揆衆の後胤であろう。
【足利義詮御教書 軍勢催促状】 人見安正家文書 亀岡市史所収
参御方致忠節者 本知行之地 不可有相違(之)状 如件
(味方に参り、忠節を致せば、本知行の地、相違あるべからずの状 如件(くだんのごとし)
正平六(1351)年十一月十二日 花押(足利義詮)
丹波国桑田船井両郡一揆衆中
これは一揆衆を頼んでの軍勢催促状であるが、裏返しの意味は、味方にならなかったら討伐するという意味も含まれている。正平6年はまさに「観応の擾乱」の真っ最中であり、南北朝期最悪の時代であった。正平一統とも呼ばれる。wikipediaにこの時代をうまく考証してあるので、興味があればご一読頂きたい。
この文書が馬路村の両苗、人見氏に伝来していることは、この両郡の土豪中でも人見氏は代表的な人物であったと思われる。かといって、人見氏が絶対的な支配権を持っていたとは考えられず、京都から一番近い場所に居住していたから、連絡を取りやすかったのであろう。馬路から愛宕山の裏を通り、水尾へ出て嵯峨へ通じる道は古代よりあったようで、後年明智光秀が第一回目の丹波攻めで敗北を喫した時、この道を通って京都へ逃れている。
この馬路村は人見・中川の両苗が開発した農地だったようで、近世になっても亀山藩・禁裏領の支配は受けつつも、独自に村法を定めて自治を貫いた村で、人見・中川氏は百姓身分ではあるが、苗字帯刀を許された(郷士)珍しい自治組織だったといえる。
人見・中川は夫々独自の祖霊社を持ち、絶大な格式を持ち続けてきた。
明治維新の時にこの「弓射連中」が活躍したことは以前書いたが、この時の日記は「弓射連中」がそれぞれ残しており、そこにはほぼ全員といって良いくらいの人名が記されている。明治維新の時に西園寺公望が馬路村へ入り「弓射連中」を味方に入れたことは、則ち、南北朝期の「一揆衆」を立ち上がらせたのである。錦の御旗を得た「弓射連中」が勇み立ったのは推測に難くない。
明治維新に活躍した弓射連中(弓箭組〈きゅうせんぐみ〉)の子である中川小十郎は、京都法政学校(現在の立命館大学)を創設した傑物であった。また、後には貴族院議員も勤め西園寺内閣では右腕として活躍した。文人としても多くの名著を残している。小十郎に東京での勉学を進めた叔父の中川謙二郎は新政府の官僚となり、後に東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の初代校長を務めた。
この「弓射連中」の後胤は正に由緒ある人々といえる。