東寺文書に見る奈良大乗院と明日香弘福寺・河原庄

中世史

私が中世文書を読みだしたのは、27~8才の頃だったと思う。拙家遠祖が領した丹波大山庄に関して在地で村史が発行されており、それを在地の本家ご当主が入手されたのでプレゼントして貰ったのがきっかけだった。
当時は大学受験で日本史を勉強した以外何の知識も持ち合わせていなかったが、伝承されている系図に丹波大山庄に盤踞した遠祖が、明智によって滅ぼされたとの記述があることは知っていた。まさかその場所が日本の歴史学において極めて重要な中世文書を残している場所だとは、全く想像もつかなかった。

村史は京都大学の宮川満博士によって詳細に編纂され、本編と史料篇に分かれていた。
本編は普通の日本語なので読めるが、史料篇はほぼ「和漢文」と言われる形式で書かれているため、高校の漢文しか勉強していなかった私では、時々眺める程度で、とても読み込むことは出来なかった。
しかし、不思議なもので、5年、10年と眺めていると、いつの間にか高校時代の漢文の知識が蘇ってきて、返り点や訓点がなくても、大体想像で理解できるようになった。
そんな経緯を経て、この20年ほどは随分中世史の論文も読み込んだことで、拙家に関すること以外でも東寺文書・蔭涼軒日録・大乗院寺社雑事記などを何度も読むようになり、古文書学の基礎知識も少し出来てきたように思う。

また前振りが長くなってしまったが、先日来気になっている奈良興福寺の大乗院門跡に関する史料を、大乗院寺社雑事記からでは無く、京都東寺の百号文書から少し紹介してみたい。

全く歴史に興味を持たれていない方でも、このように判りやすく書いてある文書もあるので、和漢文というのはこうなっているのかと話のネタにでもして頂ければ幸いである。

(1)【室町幕府管領 斯波義重奉書】 東寺百号文書ホ函42-1
東寺雑掌申大和国弘福寺并河原庄事等 任去五日御判可被沙汰付雑掌之旨 可被申入大乗院家之由 所被仰下也 仍執達如件
応永十五年(1408)十月九日 沙弥(花押)【斯波左兵衛督入道】
松林院僧正御房

東寺雑掌(ざっしょう)申す 大和国弘福寺(ぐふくじ)並びに河原庄の事等 去る五日の御判に任せ 雑掌に沙汰付けられる可(べ)きの旨 大乗院家に申し入れられる可きの由 仰せ下される所なり 仍って執達如件(しったつくだんのごとし)

管領斯波義重御教書案応永15年10月9日

(2)

(2)は(1)のものを東寺の雑掌が書き写して保管したもので、このようなものを「案文」」という。

この管領斯波義重の奉書が何故東寺にあるのかと思うが、東寺の公家僧侶は藤原氏出身の方が殆どなので、大乗院門跡より東寺の松林院僧正御房を経由して幕府に訴訟(安堵の奉書を望んだカ)を提起したのであろう。
その結果、去る五日に足利将軍が署名した(花押だけ)奉書が出されたので、その旨に任せ大乗院家に申し入れるようにという管領御教書(かんれいみぎょうしょ)が発行された。

管領斯波義重御教書応永15年10月19日

この弘福寺並びに河原庄のことは、 高市郡 明日香村川原1109にある弘福寺のことで、この付近を河原庄と呼んだと考えられる。
奈良県観光公式サイトによれば、現在では川原寺跡として紹介されている。思わぬ処で明日香村関連の史料が出てきた。大乗院に関することを京都東寺の百号文書で見つけるなど、歴史は本当に奥深い。

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