先日購入したタムロンのズームレンズをテストする為に、久しぶりに奈良へいってきた。
奈良ホテルの東部にある荒池にある浮御堂を望遠レンズで池の西側より幾つか撮影してみた。
まあまあの結果だったので帰ろうとしたら、車の横にメスの小鹿が待っていてくれたようにこっちを向いている。思わず数枚写真をとった。鹿は殆ど日陰にいるので、太陽光線が弱いことから中々上手に撮影することは難しい。
また今度ということにして、13~4年前に訪れたことがある「福智院」を再訪した。若いご住職が声をかけて下さり、いろいろとお話をして本堂へもお参りさせて頂いた。
私は不勉強であったのだが、このお寺は鎌倉時代の創建で、御本尊も鎌倉時代のものが伝わっている。奈良は源平合戦や南北朝の戦乱・応仁の大乱にも巻き込まれ、多くの寺社が焼亡しているが、幸いなんことに、この場所が春日社の少し南になるので、放火されなかったのであろう。
室町時代の歴史研究には欠かせない大乗院の日記にも石破(漢文よみにワルイシ)にいた武士団が戦争に加わらず退いたことを非難している記事がある。
破石はバス停でいえば福智院のとなりにある。
また、福智院氏も興福寺の衆徒(しゅと)であったので、軍勢を率いて何度か出陣していた。
もう一度史料を読み返してみないと確実なことは言えないが、福智院氏も武士団であったことは間違いないので、焼かれなかったのは奇跡としか言いようがない。
暫くご住職とお話していたらご尊母様も出てこられ、しばらく歓談させていただいた。
父が学んだ飛鳥小学校の創立100年記念誌をお貸しくださったので、これから読んでみたいと思う。
父が福智院の家から京都へ出たのは祖父が急死し、18歳(数え年)であった父では仕事を続けてゆくことが困難になった為、当時祖母(父の母)の兄が京都で事業を成功させていたこともあって、そこへ預けたのである。
叔父の家で肩身の狭い思いをしたことだろうと思う。幸いにして昭和10年ころより小さな事業を始め、戦後何人かの人を雇うようになっていたが、時代の流れに乗れず、私が大学を卒業する直前に行き詰まってしまい、事業を自主解散してしまった。
私から見れば正しく士族の商法であった。
今、私が福智院や高畑を歩いていることをどう思っているだろうか。いずれ私も遠祖の墓所に入る。その時ゆっくり話してみたいと思う。