大乗院寺社雑事記他雑感

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暖かい日差しに誘われ、先日散策した時に行きそびれてしまった、奈良興福寺の大乗院門跡後にある市の施設に行っていた。
もう12~3年前になると思うが、初めてこの辺りを散策した時に見つけて、まだ庭園の発掘調査の最中であったが、建物は出来上がり公開されていたので見学させて頂いた。

当時はまだ奈良の歴史史料をそれほど深く読みこんでいなかったのであるが、京都室町幕府と南都(奈良のこと)は切ってもきれない関係にあり、私が主に研究している室町幕府奉行人奉書にも度々登場する。
先日書いた福智堂に関する歴史史料も大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)【以下雑事記とする】に記載された日記が出典である。

南北朝の頃、拙家の信綱というのが南都奉行も兼任していこともあって、辰市家文書に名を残しているが、他に春日社にも一点奉書が残っており、その奉書を届けた者の名(実名だけ)が別の庄園史料に出てくる「混合一族」の当主名と一致し、時代的にも違わないことから、恐らく拙家奉行の配下に入っていたのであろう。今まで判ってはいたがそこへ入りこむと益々複雑になることから研究してこなかったことを、これを機会に少し知恵を巡らせてみようかと思う。

この雑事記は門主であった藤原氏出身の僧によって書き継がれたもので、今日の歴史に大きな足跡を残している。私たちが学校で勉強してきた歴史というのは、何を元にして研究されたのかと言うことを誰も考えないが、その教科書の元はこの雑事記や京都東寺の百号文書が残されたから判ったのであり、それが散逸されていたり、戦禍に会って焼失してしまっていたら、皆目わからなかったのである。

ある著名な歴史研究者が仰っていたことであるが、当時関東の大学で教鞭をとっておられた頃、行政から地元の歴史に関して講演をしてほしいと依頼された事があったそうだ。然し、どの時代のことを指すのか私は存じ上げなかったが、講演しようにも「この地域に史料が残っていない」ので話の仕様が無いと御断りになられたそうであった。
さもありなんと思う。京都・奈良を中心に歴史は動いており、地方は中央へ年貢を納めること以外は、鎌倉を除いて、これといった出来事が記録されてこなかったのである。

私は京都で生まれ育ち、この13年ほど前から、江戸期の遠祖所縁の地である奈良・郡山に住まいしているので、日本の歴史の中心しか知らない。
若いころ地方へ旅行に出かけた折に、土地の方とお話をしていたとき、京都から来ましたと申しましたら、何をしにきたのと不思議がられたことがあった。

当たり前のように歴史に出てくる場所を見ているが、地方の方はわざわざそれを見るために高額な費用をかけてこられるのである。

ここに住まいすることを感謝して、いつになるか先が見えない歴史研究に楽しみを覚えている。

以下は大乗院と傍にある楡加神社の写真をアルバムにしておく。

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