昨日書いた丹波氷上郡の会所一件に関する記事が、連携しているfacebookで完全にシャットアウトされていた。
もしかすると有るかもしれないとは思っていたが、やはりソーシャルメディアでは禁句になっている。
これは已むを得ないことと思うが、かといって全く文字にしてもいけないとなれば、研究など全く出来なくなる。まあ、自分でサーバーを借りてそこで書いているから良いようなものだが、これがレンタルブログだとそうは行かないだろう。
ネットの上では心無い投稿が目に付く。彼らは歴史の史料を見たこともないだろう。私が生まれ育った京都も難しい問題を抱えている。
奈良県御所市は同和運動発祥の地で、メッカとなっている。
実はこの御所という場所は明治の初期に新政府が区割りをした時の四郡役所があった場所であった。当時は葛上・葛下・十市・忍海の四郡を一つの行政単位とし、郡長が赴任し、明治以降何度か合併を繰り返した村々で戸長を選出し、彼らを通じて新政府の指示が出されていた。
処が、この御所は四郡の一番南部になるので、北部の者が役所へ行くには一泊しないと行けない場所であった。そこで奈良県は丁度この地域の中間になり、古来伊勢街道の宿場でもあり、浄土真宗専修寺の門前町として栄えた高田に郡役所を移すことを明治22年の末に県議会で議決した。
これに対して、御所では猛烈な反対運動が繰り広げられ、12月晦日に郡内の鐘が連打され、御所河原に3千人の群衆が集まり気勢を上げ、郡役所に向かった。また、高田でも戸長役場に群衆が詰めかけ、驚いた役所の職員や警察署が宥めようとしたが、頑として受け付けず、結果として当時の郡長は郡役所移転反対の決議文を持たされ、奈良へ追放される次第となった。
この結果、この四郡は奈良県の指示に従うことはなく、独自のアジールを形成した。このことは御所の自慢として語り継がれ、公園には当時この反対運動を指導した者が顕彰されている。
国家公務員の名簿である職員禄には、翌年、高田の戸長は記載されていない。尤もこの年だけ戸長の出身村・町が記載されていないのだが、他の戸長を前年の名簿と比較すると、高田だけ戸長がいない。
実はこの時の戸長(当時は連合戸長と言った)こそ、私の曾祖父であった。