地頭が大山庄へ入部の後、隣庄摂関家(九条家)領宮田庄とその境界において様々な衝突を繰り返し、訴訟となり、その訴訟文書は中世丹波大山庄地頭の小領主化への過程として様々な論文に書かれているのであるが、実は地頭が入部するより遥か昔、平安時代よりこの問題は解決を見ないまま曖昧な形での折り合いをつけ、何度も繰り返してきたようである。
東寺が丹波大山庄を荘園として購入したのは、承和12年(845)のことであった。
この時の民部省符の案文が東寺に残っている。(案文とは写しのこと)
民部省符案 (無号)
「承和」(端裏書)
民部省符 丹波国司
永施入東寺田地肆拾肆町佰肆拾歩 在多紀郡
墾田玖町壱佰肆拾肆歩 池壱処堤長七十七丈
野林参拾伍町
四支 東限公田 西限?山峰 南限川 北限大山畢
河内郷地一条三大山里 一大山田東圭五段
二 大山田東圭五段
(以下略)
以件等田、便入東寺、永充伝□御願真言宗経律論疎之料、与居諸争照、将天地自存、若干功徳、不暇敷陳、伏聴、天裁者、大納言正三位兼行右近大将民部卿陸奥出羽按察使藤原朝臣良房、奉、勅、特時准来奏者、省宣承知、依件勘入者、国宣承知、依件行之、符到奉行、小輔従五位下橘朝臣貞雄 従八位上守少録船宿祢鯨
承和十二年九月十日(845)九月十日
到来十一月二十五日
奉
介三原朝臣 大目佐伯宿祢
権大目文連直麿
件案文、可寺印下遣庄如件
(以下省略)
国家より購入した大山庄の年貢や諸工芸品などの具物を以って、東寺の維持管理料としたのである。この大山庄とは現在の兵庫県篠山市大山のことであるが、その一番東側は宮田庄の流末によって灌漑しなければならない場所であった。
古来農業を行うには農民の日常生活に必要な薪炭を如何に確保するかと言うことも重要な課題であり、ついては山野の入会権として農民達は常に緊張していたのである。
大山庄の中心部は大山川に注ぎ込む幾本もの川から用水を得、山野の恵みも受けることが出来、薪炭も容易に確保出来ていた。
それに対して宮田庄は宮田川より要水を得ていたが、山については西側が大山庄との境に当り、木々や落ち葉を拾いに行くと大山庄の農民と諍いを興さざるを得ない場所であった。
大山庄側から見れば、庄の一番東になる西田井地区は、宮田川より用水の流末を流して貰わないと農業が立ち行かない場所であり、大山・宮田双方の農民たちは互いに荘園領主を頼み、有利な裁定が下るよう神経をすり減らしていたのである。
さて、ここで古文書学の教科書でも取り上げられている摂関家御教書を見てみよう。
東寺領丹波国大山庄事
右不可有宮田庄妨之由重被仰下候畢者以此旨可令言上給之状如件
八月二八日 少納言(花押)上
(読み下し)
東寺領 丹波国大山庄の事
右、宮田庄の妨げ有るべからずの由、(関白藤原忠通卿が)重ねて仰せ下され候おわんぬ。者(てえれば)この旨を以って(仁和寺宮覚法法親王に)言上令しめ給うべきの状、件の如し
(天承二年(1131)) 八月二八日 少納言(平知信)(花押)上
これだけでは誰からの書状で、年もわからないのであるが、れが天承二年(1131)関白藤原忠通の御教書であり、忠通の家司少納言平和信が忠通の意向、を受けて宮田庄の大山庄への濫妨を停止するように命じたことを、東寺側の仁和寺宮覚法法親王側近の房官に伝えたものであることが判明している。
古文書学的な考察は学者の先生方にお任せすることとして、ここでは地頭入部より遥か昔から、大山庄と宮田庄との間で、用水と山野立木の取得について常に争いが起こっていたことを頭に入れておくこととする。