国より大山庄を購入したことにより、東寺は庄園から様々な年貢・貢物を徴取できるようになり、預所を任命し、その者に庄園の経営を委ねることとなる。この預所職になった者は庄園に政所を開き経営を行うのであるが、次第に自分は現地へ赴かず代理人に庄園業務を行わせ、必要経費を中から職責による取り分を除いたものを東寺へ納めるようになっていた。
一方、丹波国司に任ぜられた者(公家)は、今まで徴収できていた大山庄からの年貢を自分のものに出来なくなるので、減収になっていまう。その為、屡々国司は素知らぬ顔で年貢の徴収の為に大山庄へ乱入し、それを拒む庄民と衝突し強奪する事態となった。
東寺は何度も国司不入の原則を元に朝廷へ国司の濫妨を止めるよう求めていたが、何度にもわたり国司の交代時期などをきっかけとして摂関家などに支配されていた。
官宣旨案並左大史 惟宗義賢書状案
「宣旨案文 後度」(端裏書)
左弁官 下 丹波国
応官使共、任公験堺四至、東寺所領大山庄事
右得彼寺今月十日奏状?、件庄為寺領数(経脱カ)百歳、而近江国司乍見旧記、収公田地、付負公事事、依此今年十月十三日随申請、四至之内、国司不可入勘之由、被下給宣旨、爰国守藤原保家朝臣、乍見宣旨文、更以不承引、弥入乱数多国使、捕搦庄司田堵等責凌、敢令東西者、為愁之甚、尤在斯。望請天裁、且被下給官使、任公験堺四至、兼重被下、宣旨於国司、自今以後、永停止如此被非理之妨者、権中納言藤原朝臣貞頼宣、奉 勅、宣仰彼国官使共、任公験堺四至者、国宣承知、依宣行之。
長久三年(1042)十二月二十五日 左大史惟宗朝臣
中弁源朝臣
このような当時の丹波国司との関係は鎌倉期の地頭入部まで何度も繰り返していたようである。