賀名生黒木之御所址ほか

中世史

先日SNSに書きました賀名生御所址に関して、黒木之御所跡のことをもう少し書いておきたいと思う。
抑々賀名生に「黒木之御所址」なるものがあるのかも知らずに資料館へ行ったのですが、そこで職員さんとお話させて頂いた時に教えて頂いたものです。

黒木というのは丸太のままで作られた家(小屋と言った方がよいかも)の事を言います。製材していない木材で作ったとお考え下さい。


地図を見ても何処にも出てきません。道順を教えて頂いたのですが、車を走らせても皆目見当がつかず、戻ってきてもう一度お尋ねしたが判らず、又戻ってくる時に駐在所がありましたのでお尋ねしましたが、全くご存知ありませんでした。
で、再々度資料館へ戻り、スマホでgoogleマップを見ながらこの辺りと教えて頂き、再度探しに行きましたが、教えて頂いた標識を発見出来ず、偶々見つけた料理屋さんでお尋ねし、漸く入って行く道が判りました。初めての方は先ず見つかりません。地元でもご存知の方は殆どおられないと思います。

現在資料館がある場所が皇居があった処という事になっています。然し、伝承だけで、傍証がないとのことでした。後醍醐天皇から頂かれた「日の丸」が展示されていましたが、時代考証をされた結果、後醍醐帝の時代とは少し後年(100~150年後)になるのではなかろうかと、研究者は考えておられるようです。

賀名生は後醍醐帝のお子様である後村上天皇以降3代に亘る御所でしたので、伝承物はその時代の後半ではなかろうかと推察しますが、何しろ傍証がない事から、何とも言えない処です。

資料館の後ろの山には明らかに中世の山城跡が認められ、そこに北畠親房公をお祀りしてあることから、御所址との伝承は動かない処と思います。賀名生地域の最も有力者であった堀家で庇護されたことは十分納得出来ます。

この堀家住宅だけでは諸卿の屋敷等の建設は不可能と思われることから、外に対しては堀家としか判らないようにしておき、学校跡地の場所に常御殿(簡易なものであろう)や公卿の屋敷が作られていたと考えられる。

御殿址と推定する学校跡への道は、資料館の左端から緩やかな坂を登って行かねばならず、途中2回Uターンのように道が続いている。中世山城に良く見られる虎口の役目を果たしている。稲荷社を祀ってある場所を「馬出し」と推定すれば、中世の城以外の何物でもない。

面積も広く、庭や御殿などを作っても十分余裕がある。そして北畠親房公の墓所がある場所は天守に当たる処と考えられる。この地区を一望出来る場所にある。

街道からは全く見ることが出来ない場所にあり、後南朝の御所としては完璧な要塞を築いている。

黒木之御所址は吉野の落城により逃げてきた帝・公卿達が一時的に隠れ住んだ場所で、堀家に庇護されたあとも、常に避難所として併用されたのではなかろうか。

伝承だけで傍証がないのも訝しいが、ここ以外に後南朝の御所址と言われる場所がないので、間違いはなかろうと思う。

中世の古城研究者により調査されることを期待したい。

尚、黒木御所址の地図は敢て掲載しない。

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